「美しさ」と「美」と「用の美」と

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2020.12.01 (火)

「死ぬまで美しいものを追い求める!」
彼女は酔うといつもそう言う。
そんな確固たる信念を持つ彼女をいつもうらやましく思っていながら
「でも価値観って人それぞれで、何が美しいかも人それぞれじゃないですか?」
などとのたまってしまった私。でも、実は私もそうありたいと思っていることに、はたと気付いてしまった。
美しいものを愛でていたいと思うのは人の本能なのかもしれない。
確かに、美しいと感じるものは人それぞれではあるけれど、普遍的な「美」があると感じるようになったのは茶道を習い始めたためかもしれない。
ものを愛でることが、こんなに楽しいとは思わなかった。
「愛でる」を検索すると「愛して大切にする。珍重し賞美する。」ことらしい。
今、目の前にあるものは永遠ではなく今だけ存在する「美」ゆえに愛おしく感じる。
そして、この世のおおよそのモノ、また命も今だけの存在で一瞬一瞬景色をかえて移ろっていくもの。
今、この一瞬が愛おしく思うようになったのは、年を重ねて人生の折り返し地点を過ぎ、死の足音を感じるようになったせいだろう。
(まだまだ死ぬ気はないけれど)
ニーチェの言葉に「感覚を愛しなさい」とある。
たとえそれが他者からは「下品だ」とか、「不道徳だ」、「ただの脳の反応だ」と言われようとも。
「私たちは、感覚を愛してもいいのだ」と。
(「超訳 ニーチェの言葉」白取春彦 編訳 より)
この言葉、もっと若いころから知っていたかったなぁ~と思った。
でもきっと、若いころに聞いていたとしても「へぇ~」と流していたことだろう(笑)
またニーチェはこうも言っている
「自分の眼で見よう」
知識ではなく自分の眼がとらえている「美しさ」を認めるように。ということのようだ。
そう考えると、私たちの周りには実にたくさんの美しいものであふれている。(環境にもよるけれど)
岡本太郎は、「美」と「きれい」を区別している。
「きれい」は相対的な価値で型にはまり、時代の基準に合っている。
対して「美」は、「人間の生き方の最も緊張した瞬間に戦慄的にたち現れるもの。
一見無意味だったり、恐ろしくゾッとするようなセンセーションであったりもする、しかしそれでも美しいのである。」
命と直結したもので、感動を呼び起こすものだ。ということか。
何とも、岡本太郎らしい。
ここまで、「美とは?」について上げ連ねてきた。
では建築は?というと、岡本太郎的な「美」においては、町のシンボルとなる建物にはふさわしいのだろう。
しかし住宅は?となるとそうもいかない。
住宅はうつわや車などと同じく「用の美」が必要である。実用性も兼ね備えたものであるべきで、追い求めるべきは「心地よさ」なのだと感じている。
茅葺の師匠の話を聞く機会があった。
茅の葺き方、補修の仕方にもいろいろあり、奥深い世界だと感じた。
(深すぎて、難しかった(笑))
そのつくりにはいろいろ意味があるようで、先人の知恵を感じたのを覚えている。
屋根のてっぺん(棟)の部分に飾りがありその両脇は反りあがっている。
それは、どうしてか?と聞かれた師匠
「そのほうが美しいでしょ?美しくないと仕事が楽しくないでしょ?」
との粋な答えにグッときた(笑)

acoya