世にのこるもの
子供のころ、子供向けの百科事典が好きだった。
特に宇宙のページが好きでよく眺めていた。
宇宙空間があり、そこには渦巻きがたくさんあり、その中の一つが銀河系で、
その中の本当に小さい太陽系があり、その中の小さい星が地球。
という巻頭カラーの綺麗な絵が特に好きでよく眺めていた。
大き目の紙に描かれ、たたんで折り込まれていて、一部がどんどん拡大されていき、ようやく地球が現れる。というように書かれていて、地球はどんだけ小さいんだ!と思っていた。このページが宇宙だとしたら、舞っているホコリより小さいんだろうなと子供ながらに思った。
音とか光のページも好きで、夏休みなどの自由研究にそのページを抜粋して書き写したのを覚えている。
自然科学が好きで、もっぱら昆虫採取やサンショウウオやオタマジャクシの卵をとってきたり、時にはヒルも捕まえて育てた(笑)。動植物だけではなく夜空を見ることや、太陽の光で遊ぶことなども好きだった。あんなに好きだった自然科学なのに、建築士の勉強では大の苦手に(笑)。計算式とか覚えられない。
人間「have to」になると嫌気がさすのだな~と実感している。
建築は地球にとってはオデキみたいなものだ!と常々思っている。
いずれ壊れるオデキ。地球にとってみれば治癒したことになるのだろう。
形あるものは残らないゆえに、はかなくて記憶にも残る。
世に残るのは記録、言葉、物語り。だけのような気がする。
情報ともいえるけど、その言い方はちょっと味気ないので「物語り」と言い換えたい。
物語りとなりうるためにも、感情をともなった記憶を残せたのなら幸せだろう。
しかし、感情を伴わない記録だとしても決して無駄ではない気もする。
たとえば、ただの家計簿から後世の人が今の生活様式を想像するのも悪くない。
そこは、好きに想像していい。
森羅万象、すべては見方しだい。見る側の意識で真実も変わるのだし、そう考えれば感情の伴わない記録も、いろんな余白をはらんでいて、逆に面白い。好きに想像を働かせられる。そんな余白が風流ともいえる。
現存していないお城などもそれにあたる。変に再現するより、城跡や記録から皆で想像する方が浪漫がある。現存するものを見てしまうとその記憶が固定して一つの物でしかなくなってしまう。
宇宙から見ると、地球は人間の体のように見えるのだとか。
そして人体の中の細菌はまるで人間社会のようにコロニーを作っていて、宇宙からみた街のように見えるという。人間は細菌によって支配されていると言っても過言じゃないと聞く。腸内の細菌は善玉菌、悪玉菌それぞれ2割で他は日和見菌。これも地球と人間にたとえられる。日和見菌は、多いほうの菌に変化するとか。まるで、世界大戦を初めてしまう人間のようだ。
知の巨人・南方熊楠は細菌の一人者だが、霊的な体験も多いのだとか。
体や地球のボーダーを超えた存在だったのかもしれない。
同じ時代に生まれて、話を聞きたかった。イケメンだし(笑)
しかし相当の変わり者だったようだ。それをふまえても、やはり会いたかった。
熊楠の偉業や逸話は後世に残った。
世に残るものは、形あるものよりやはり「物語り」なのだろう。
話がずれてしまった。
建築はそのままは残らない。再現に限りがある。それゆえ、語られるに値するものを、心を込めて大切に作り、そして少しでも長く残したい。そう思った。